秋田県指定史跡石川理紀之助遺跡

更新日:2024年01月25日

聖農 石川理紀之助とは

石川理紀之助

石川理紀之助は明治時代の農村指導者で、生涯を貧農救済に捧げた人物です。
弘化2年(1845年)に小泉村(現在の秋田市金足小泉)の農家に生まれました。
21歳の時に山田村(現在の潟上市昭和豊川山田)の地主石川家に婿養子に入り、傾いた石川家を回復させます。その後、卓越した農業知識を請われ県の農業行政に従事します。以来、米質改善指導、種子交換会(現在の種苗交換会)の創設、歴観農話連の結成など地域に即した農業指導に努めました。

明治16年に辞職して山田村に帰村。家業に専念するとともに、村民と山田村経済会を組織し農業の効率的経営を奨め、5年で村の借金をすべて返済しました。そのため、一躍話題となり農商務省や山梨県、千葉県等で講演しています。

明治29年に農村の土地や土壌などの総合調査ともいえる「適産調」を手がけ、この調査をもとに各地の農村の指導にあたり実績をあげています。

晩年になっても農村指導に対する情熱は衰えず、宮崎県谷頭(現在の宮崎県山田町)や県内を巡回しています。しかし、仙北郡九升田(現在の大仙市九升田)の建て直しを終えたのを最後に大正4年9月8日、71歳で尚庵にて永眠しました。

理紀之助は農業の発展に尽力しながら、かたわらでは和歌を詠むことも日課とし、「貞直」の歌号をもって各地の歌人と交流を持つ一流の文化人でした。

秋田県指定史跡石川理紀之助遺跡

石川翁は、農村の更生、農民の救済、農業の発展に尽くし、種苗交換会を創設した。翁の遺跡のひとつは、住所は「山田字家の上」尚庵、茶畠文庫、備荒倉、古人堂、書庫、梅廼舎、石川家墓所等で、もうひとつは「山田字市ノ坪」通称・草木谷で、資料館から東へ1.7km(実測)の地点に、理紀之助が貧農生活を実践した山居跡、五時庵などがあります。

三井文庫

三井文庫(石川文庫)

翁の業績と思想、そして遺跡保存などの顕彰に献身している孫太郎氏を中心とする石川会の事業に感動した財閥三井報徳会が資料散逸をおそれ昭和12年(1937年)に建てた書庫と展示室です。ここに約1万冊の蔵書と数千の遺稿、遺著が保存されています。 今日、翁の豊富な資料が残っているのは、この文庫が大きな役目を果たしたためであります。

備荒倉

備荒倉

積雪、寒冷地、一毛作という気象条件下にある東北地方の農民は常に不作、凶作に苛まれ農民自身が飢えにくるしみ、「一日に一合の米があれば人一人の命を救いうる」という古人の言葉に従って、翁自らの食料の中から毎日一合分を別桶に蓄え、その分粮米を用いることを実行し、これを蒸米として貯蔵し凶作に備えました。草木谷山居後一千日に一石の米を得、更にこれを家人にも実行させて蓄えたのが現在の石川家備荒倉であります。

石川家墓所

石川家墓所

翁、翁夫人、民之助、老之助及び太朗の墓などがある。翁の墓石の文字は翁の直筆。

尚庵

尚庵

翁晩年の10年間を過ごした庵。
常居は筵を敷き、菅笠、蓑、ケラなどを戸板に掛け、『自分は百姓である』ということを忘れず、その分に応じた生活をした跡が歴然としています。

茶畠文庫

茶畠文庫

この建物は「尚庵」と廊下続きのニ間四方の板小屋です。翁66歳で県産米検査部長に任命された時、産米検査員養成のために使用されていたものを明治45年(1912年)に大久保の元木から茶畠に移築したもので、購読した雑誌類、年報類を蔵し「茶畠文庫」と名付けました。

梅廼舎

梅廼舎

翁59歳のとき、嗣子次男老之助(33歳)が病死したので、父親を失った幼い孫たちを育てるために、老之助が草木谷にて使用していた農舎をここに移築し京都に注文した老之助の像を安置し、使用していた農具や書籍を置き、孫たちに『父居ますが如く』にして育てた教育の場でありました。明治35年(1902年)新年の勅題『新年の梅』御撰歌になった老之助の和歌にちなんで翁が後から『梅廼舎』と名付けました。

古人堂文庫

古人堂文庫

明治31年(1898年)翁54歳のとき、県南地方救荒のため巡行中、草木谷の山居が火災に遭い多くの書籍を失ったことで、古人の書を火災から守り、子孫に伝えるため、明治34年(1901年)、当時珍しかったトタン板を使用し75円の大金を投じて建てた、名付けて『古人堂文庫』といいます。

草木谷山居跡

草木谷山居跡(五時庵)

貧しい農村を豊かにするためには、まず農民自身を奮起させることが必要です。そのためには、「自らがどのように働き、どのような暮らしをすればよいか手本を示すことが必要である」との考えのもと、明治22年(1889年)9月翁45歳のとき、藁、縄、鎌、山刀、米三升五合を老馬に積んで単身入山、山峡の痩地9反歩を耕し3年間貧しい農家経営の実体験をした所です。
翁の独創的な経済観や教えを求めて、近隣の若者たちがここに集まってきたのもこのころで、翁はその若者たちと、次第に衰退していく農村振興の方途を求め語り合ったのでした。
記念碑の「寝て居て人を起こすこと勿れ」の文字がうっそうとした樹木の間から漏れる日光に燦燦と輝いています。
五時庵など当時の翁の生活の一端を物語るものが今も残されています。
「草木谷」とは翁が付けた俗称で、正式な地名は「山田字市の坪」といいます。

遺跡マップ

秋田県指定史跡石川理紀之助遺跡のマップ

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